もうしばらく、寝ていなかった。どうにも眠ることが出来なかった。
僕はホテルの窓にもたれるように寄りかかっていた。窓から差し込む日差しは褪せて、僕のまぶたを曇らせた。緑色の塗装が剥げた窓枠は僕が重心をずらす度にかすかに軋んだ。外の気温と室内の気温は特に差が無く、暑くも寒くも感じない。
僕は、窓のそばにある机の上においてある、虫眼鏡とタバコを取る。タバコを一本箱から取り出し、窓枠にそっと置いた。一度、虫眼鏡で透かして空を見た。弱い光の反射と薄汚れたレンズが、虫眼鏡を濁った鬢の底に思わせた。僕は、その虫眼鏡の光の焦点を、窓枠のタバコの先端に合わせて火をつけようとした。眠い、何故これほど眠たいのに、眠ることが出来ないか。
ゆるい風が流れた。特に寒くも暑くも感じない。窓から見える庭にある、池に掛かった石橋の、苔むした欄干から、緑藻のにおいがかすかに流れてきた気がする。こういった情景が特に好きなわけではない。どうやら、他にやることが無いようだ。川向こうで起こっている争いとここはまるで無縁だ。火をつけるのは昔から得意だったはずだが、なかなかつけることが出来ない、くすぶる様なにおいを感じることはあっても。タバコを吸いたい、うまく眠ることが出来る前に、僕はタバコが吸いたい。他に何もしたくない。
目の端を、ちらと赤いものが横切った。ゆっくりと視線を動かすと、眼下の庭の池に掛かった石橋の、苔むした欄から、十歩といかぬ樫の木の、根元に、女がいた。白い日傘に赤いカスケードのワンピース、まるであれでは、娼婦のようではないか。女はこちらを見上げている。僕は眠かった。それよりも、タバコを吸いたかった。僕は、その女の顔を見た。女の口元はかすかに微笑んでいるように見える。しかし、目元は悲しげで、僕に同情しているように見えた。何か、かすかに胸が苦しくなった。
僕はタバコに焦点を集め続けた。くすぶる、くすぶる。タバコに火はつかず、くすぶり続ける。僕は虫眼鏡と地球儀の相関関係に思いを巡らせた。この関係を公式化するのにずいぶん骨を折った。くすぶっているのは、タバコだけではない、日差しは褪せて、乱反射することなく、窓辺りをくすぶっていた。のどが渇いてきた、と、同時に左手の甲がかゆくなってきた。手の芯からものすごい痒みが走る。なんだか笑いたくなった。いや、それでも眠かった。もう、タバコを待ってもいられない。
僕は、瞼が閉じていくのと同時に、窓の外に吸い込まれるように落ちていった。落ちていく途中、瞼が閉じきる前に、女の姿が目に入った。その瞬間、僕はその女が何者か、思い出した。僕は、そのまま庭を通り越して、暗い奈落へと落ち続けた。