2007-02-25

Slope, Up & Down


 

 買い物袋を両手に下げて、僕はきつい上り坂を上がっていく。坂の途中の家から聞こえて来るメヌエット。静かに、僕は静かに上り坂を上がっていく。坂の頂点の少し込みいった場所に僕の住む安アパートはある。荷物を置いたら、僕はすぐに家を出なければならない。用事があるのだ。

 程なく荷物を置いた僕は、肩掛けカバンを掴み取り、急かされたように家を出る、鍵をかけたかも分からずに。

「見ろよ、街灯の光の端も、緑色だぜ」

 などと柄にもなくつぶやくと、塀の裏にいた(のだろう)猫が「みゃー」と鳴く。多分、腹が減っているんだろう。雲ひとつ横切らぬ夜空の只中で、月はぼやけて、融けかけたチーズのようにだらしない。メヌエットはもう鳴り止んでいた。僕は静かに坂を下る。一歩、一歩。坂の途中にある十字路で、僕は上ってきた道とは違う道を選んで曲がった。その道は、緩やかに左に折れて目的地に向かっている。前方に見える道の行く先は切り立った土地を削って出来ていて、片側は石垣が組んである。その石垣とゆるい曲がりが、街灯の青白い光を遮っている。石垣のやや手前、マンションの傍に立つ街灯の根元には、エンジンが掛かったままのカブが停めてあった。新聞配達のものだろうか。無用心だ。坂を下りるのも意外に負担が掛かるもので、少し歩いただけで膝にきた。それ程長い坂ではない。終わりはもうすぐだ。

 坂は緩やかに下りに差し掛かり、小さな”流れ”を渡すコンクリートの橋を渡ると、坂は終わった。僕は今歩いてきた坂を振り返ってみる。緩く曲がりながら上る道の途中には、ポツリポツリと街灯が立ち、暗い坂道を照らしている。街灯の傍にある木造の家屋が暗闇に浮かび上がる。雲が無いにもかかわらず、家屋と石垣の崖の間から見える夜空には、星が見えない、ただ、融けかけた月だけが木陰から覗く。もう、アイドリングの音は聞こえない。

 バス通りの手前で僕は、足を止めた。目の前には赤い郵便ポストがあった。肩掛けカバンから封筒を取り出して、静かにそれを落とし入れる。コトリ、と音が響いた。周りの民家からは、テレビの音も、ラジオの音も、家族の団欒も、犬の遠吠えも、何も聞こえない。住宅街の只中、封筒が落ちてポストの底に当たる音だけが響いた。僕の目的は、この封筒の投函だった。その瞬間、辺りの家並みの、色のかすかなニュアンスが赤から青に変わった。ざわめくバス通りの気配。この場にはもう、用が無くなった。僕はまた静かに、驚くほど静かに坂を上る。

Photo & Fancy: M.Y

Camera: Kyocera WX300k

Retouch SoftWare: Picasa2

2007-02-13

夕刻、障子 - Japanese Traditional House ①


気が付けば、部屋中に差し込む橙色の光で満ち溢れていた。流れる冷や汗は、寝入ってしまった間の奇妙な夢の内容を物語る。勿論、どんな夢であったかなど、記憶に残っている訳も無い。隣の障子を隔てて廊下を挟んだ台所からは、包丁のリズミカルな音律。胸に詰まるような圧迫感を覚えた。どうやら人の家であるにも係わらず寝入ってしまったらしい。ふ、と僕は息をついた。確か僕は、・・・・・この家で音楽を聴くつもりで来たのだった。床の間には、磨き上げられたアルミ製のターンテーブルが鎮座しており、その白銀のボディは朱に染まっていた。僕は中腰でそのターンテーブルを持ち上げて、部屋の中央に据えた。ケーブルは延ばされて部屋の中央を横断して、床の間にあるアンプに繋がっている。僕が聞きたいレコードは、プーランクの歌曲だ。あの伸びやかに上がり、そして艶やかに下る美しいラインのメゾソプラノが聴きたかった。アンプの横に立て掛けてあるローランサンの描く女性のジャケット、あれだ。僕はレコードに針を落とした。艶やかに回るレコード。僕は、じ、と聴き入った。

橙色の光は部屋の畳の上に敷き詰められ、障子に遮られて出来た格子状の影の合間を縫って庭に植わる笹の葉の影が、風に煽られて狂おしく身悶える。襖には松らしき絵が描かれており、その上で、影が踊っていた。笹の葉が擦れて鳴る音は、サアサアとまるで何者かを招くかのようだ。しわがれた風の音、低く這いずるようなバリトン、それに台所から変わらずに聞こえてくる俎板の響き、これらの音が交錯し、僕の鼓動は何故か早まる。ある予感が有った。

レコードの歌い手がテノールに変わった時、日差しは焦げるように暗さを増し、日没迄間近だった。妙な気配を感じて、僕は障子を見た。障子には、くっきりと人影が映っている。人がいるのか、或いは物の怪だろうか?影は全く見動き一つしない。少しだけ開いている障子の隙間からは人影の口元だけ伺える、口元の紅。僕はじっとそれを見つめた。レコードは流れ、踊り狂う木々の影も今は静かに収まり影絵のようだ。畳の上には僕とその人影だけが伸びる。時は流れて、流れても、まるで部屋の中はミニチュアの模型のように止まったままだ。部屋に入る光を遮る庭の土塀の上に、焼け付く太陽がその身を隠す寸前、僕は遂に口を開いた。

「そちらじゃ、何だ、こちらに入っておいでよ。」

 影は相変わらず、身動きしない、ただ、隙間からのぞく口元の紅だけが、少し歪んだように見えた。僕は重荷が取れたように、ふ、と息をつく。ターンテーブルの針が上がり、静かに回転を止めた。気付かないうちに曲は終わっていたようだった。僕がレコードに手を伸ばした時、レコードはパキリと音を立て、ターンテーブルの上で真っ二つに割れてしまった。少し驚いて、僕はその割れたレコードに手を伸ばす。

「あ、いたっ、」

僕は欠片の端で人差し指をついてしまった。始めは浮き出るような白い痕だったが、見る見る内にその白い後から血が流れ出てきた。流れ出る血は指を伝い、まるで線香花火の玉のように溜まる、そしてしばらく溜まった後に弾けて、まるで螺旋を描くように畳の上に滴り落ちた。僕は傷ついた方の手首を反対の手で押さえた。押さえた手は、強い脈拍を感じる。どくん、どくんと叩くような脈拍は、僕の心音、そのものだ。僕は、呻いた。

 部屋を照らす日差しは止み、部屋の中は闇に包まれ、人影は闇に紛れる。台所の俎板の音は途切れていた。暗い部屋の中では、ただ、僕の息遣いだけが残った。


Photo & Fancy: M.Y
Camera: Kyocera WX300K
Retouch Software: Picasa2, PhotoShop
Location: Studio W.W

2007-02-05

Dust, Diamond


For J.B


 



 旨い酒は、呑み飽きた。僕はリカールを水で割って、缶詰の魚を流し込んだ。もう一杯。カウンター越しにオーダーを投げて寄こす。無言で差し出されたもう一杯のリカールは白濁していた。白濁した液体を透過する灯りには、青みのニュアンス。言うなればこの酒は毒で、僕はこの手の酒を呑むたびに、青と黄色の迷宮を彷徨うのだった。ターンテーブルは艶やかにレコードを回し、スピーカーからはフェンダーローズの音が左右に揺れて通り過ぎ、僕の脳も揺らしていく。少し覚える、吐き気。それは、安酒から来るものか、或いは平衡感覚を失った事からくるものか・・・・・。

 


 『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、

結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で、

散りばめられて、輝いて』



青い縁のガラス戸から伺える外の風景は、ちらちらと降り始めた雪に、足早に通り過ぎる通行人。僕は外に出て、雪が降る空を見上げたくなった。今注がれた一杯が空になったら、外に出よう。そう言えば、この雪は今年に入って始めての雪だろう。

 


 『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、

結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で、

・・・・・・・・・』



ガラス戸が、開いた。そこには見知った顔があった。外気の寒さに青白い頬が緩む。出ようとする瞬間を狙って、彼らは入ってくる。心の隙を狙っているのだ。彼は言った。

「よう。」

 僕は言った。

「よう。」

 彼は言った。

「ビール。」

僕は言った、飲み干してから。

「ぬるいビール。」

 このバーの店主は、一種の天才だ。ありとあらゆる状況を想定して、わざわざヌルくしたビールを用意してある。しかも(ご丁寧にも!)、そのビールにぴったり合う、50がらみの女が歌う、しまりの無いジャズボーカルのアルバムに針を落とした。これで話が弾まないわけが無い。僕は30回位の「へー、」を繰り返し繰り返し使う内に、いい加減飽きてしまった。今、僕の中で興味がある事は、「結晶」の話だけだ。昔、もうかれこれ10年近く経つだろうか、真夜中の新宿で始発待ちの東口で、真夏に降り始めた青白い結晶。秋の夜、幼い頃、早い内に寝かしつけられて、真夜中のまどろみの中でうなされて見た、天井から降り注ぐ明滅する結晶。青空を眺め続けて、疲れた目を一度瞑り、再び開いた時に空に現われる結晶。

「僕は、結晶の話をしたいのです。」

と言うと、彼はニヤリと笑った。

「なら、今すぐ外に出な。」



 『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、

結晶の塵は、・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・』

 


 先程迄、降っていた(ように思えた)雪は、影も形も無く、足早に思えた通行人の歩調も大抵優雅なものだった。僕は周りを見渡した。緩い坂道、ひどく乱雑並ぶ路駐のバイクや自転車、商店街から少し外れて寂しげに灯る街灯、それらの全てが普段の町並みだ。



 『雪の結晶は、・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・』

 後ろを振り返る、そこに店は無かった。シャッターが下ろされた店舗は「貸し店舗」と書かれた張り紙と、管理する不動産の名前が明記されていた。僕は飲みかけのヌルいビールがどうなったか、気になって仕方が無かった。どうも落ち着かない。何かを失ってしまったような気がして、堪らなかった。

 バーなど、初めから無かった。青い縁のガラス戸も、そのガラス戸から洩れ光る柔らかな灯りも、気の利いたバーテンも、褪せた音色のレコードも、気の置けない常連も、全て「予感」だった。僕が夜空を見上げた時、暗い夜空の端に光る地上の明かりを反射したボヤのような光の中にある、散りばめられたキラキラ光る粒子が見せた何十年後かの「予感」だった。瞬間、僕は未だ見ぬ未来へと、心が飛んで行ってしまったのだろう。僕は、十数年後、あのバーのカウンターに座り、やはりリカールと魚を頼み、未だ見ぬ常連を待ち、焦れた様にガラス戸の外を眺めている(だろう)。

 僕は手の平を空に向けて、暗闇の中から降るであろう明滅する結晶を受け止めようとした。

 



 『結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で』




Photo & Fancy: M.Y
Camera: Kyocera-WX300k
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