
旨い酒は、呑み飽きた。僕はリカールを水で割って、缶詰の魚を流し込んだ。もう一杯。カウンター越しにオーダーを投げて寄こす。無言で差し出されたもう一杯のリカールは白濁していた。白濁した液体を透過する灯りには、青みのニュアンス。言うなればこの酒は毒で、僕はこの手の酒を呑むたびに、青と黄色の迷宮を彷徨うのだった。ターンテーブルは艶やかにレコードを回し、スピーカーからはフェンダーローズの音が左右に揺れて通り過ぎ、僕の脳も揺らしていく。少し覚える、吐き気。それは、安酒から来るものか、或いは平衡感覚を失った事からくるものか・・・・・。
『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、
結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で、
散りばめられて、輝いて』
青い縁のガラス戸から伺える外の風景は、ちらちらと降り始めた雪に、足早に通り過ぎる通行人。僕は外に出て、雪が降る空を見上げたくなった。今注がれた一杯が空になったら、外に出よう。そう言えば、この雪は今年に入って始めての雪だろう。
『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、
結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で、
・・・・・・・・・』
ガラス戸が、開いた。そこには見知った顔があった。外気の寒さに青白い頬が緩む。出ようとする瞬間を狙って、彼らは入ってくる。心の隙を狙っているのだ。彼は言った。
「よう。」
僕は言った。
「よう。」
彼は言った。
「ビール。」
僕は言った、飲み干してから。
「ぬるいビール。」
このバーの店主は、一種の天才だ。ありとあらゆる状況を想定して、わざわざヌルくしたビールを用意してある。しかも(ご丁寧にも!)、そのビールにぴったり合う、50がらみの女が歌う、しまりの無いジャズボーカルのアルバムに針を落とした。これで話が弾まないわけが無い。僕は30回位の「へー、」を繰り返し繰り返し使う内に、いい加減飽きてしまった。今、僕の中で興味がある事は、「結晶」の話だけだ。昔、もうかれこれ10年近く経つだろうか、真夜中の新宿で始発待ちの東口で、真夏に降り始めた青白い結晶。秋の夜、幼い頃、早い内に寝かしつけられて、真夜中のまどろみの中でうなされて見た、天井から降り注ぐ明滅する結晶。青空を眺め続けて、疲れた目を一度瞑り、再び開いた時に空に現われる結晶。
「僕は、結晶の話をしたいのです。」
と言うと、彼はニヤリと笑った。
「なら、今すぐ外に出な。」
『雪の結晶は、更に細かく砕け散り、
結晶の塵は、・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・』
先程迄、降っていた(ように思えた)雪は、影も形も無く、足早に思えた通行人の歩調も大抵優雅なものだった。僕は周りを見渡した。緩い坂道、ひどく乱雑並ぶ路駐のバイクや自転車、商店街から少し外れて寂しげに灯る街灯、それらの全てが普段の町並みだ。
『雪の結晶は、・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・』
後ろを振り返る、そこに店は無かった。シャッターが下ろされた店舗は「貸し店舗」と書かれた張り紙と、管理する不動産の名前が明記されていた。僕は飲みかけのヌルいビールがどうなったか、気になって仕方が無かった。どうも落ち着かない。何かを失ってしまったような気がして、堪らなかった。
バーなど、初めから無かった。青い縁のガラス戸も、そのガラス戸から洩れ光る柔らかな灯りも、気の利いたバーテンも、褪せた音色のレコードも、気の置けない常連も、全て「予感」だった。僕が夜空を見上げた時、暗い夜空の端に光る地上の明かりを反射したボヤのような光の中にある、散りばめられたキラキラ光る粒子が見せた何十年後かの「予感」だった。瞬間、僕は未だ見ぬ未来へと、心が飛んで行ってしまったのだろう。僕は、十数年後、あのバーのカウンターに座り、やはりリカールと魚を頼み、未だ見ぬ常連を待ち、焦れた様にガラス戸の外を眺めている(だろう)。
僕は手の平を空に向けて、暗闇の中から降るであろう明滅する結晶を受け止めようとした。
『結晶の塵は、手の平で静かに燃え立つ青白い炎の上で』
Photo & Fancy: M.Y
Camera: Kyocera-WX300k
Retouch Software: Picasa2
0 件のコメント:
コメントを投稿