夜更け過ぎに止んだ雨が、また昼に降り出したらしい。僕は庭先で、縁側で、ビニール傘を開いて、半透明のフィルタ越しに淀む空を仰いだ。黒々とした緑の枝に遮られて覗くわずかな隙間から、滴り落ちる雨粒が鈍い透明の上に弾けた。
(また用意の良いことで・・・・。)
僕はつぶやいた。空の様子は朝からと変わらなかったが、風の調子と空気の匂いとで、僕はわずかな変化に感づいたのだった。自分が開いた傘を閉じるのに、何の遠慮がいるものか。僕は大して降っていない雨粒から身を防ぐのを止めた。止めた所で、何の影響も無いだろう、頬に伝う雫も、汗と変わりはあるまいに。
さて、夕刻までには間がある、とはいえ外に出るのは億劫だった。かと言い、居間で寛ごうにも先客がある。濡れた暗い庭以外のこの家には、何やら人の気配がした。そう長くは持たないが、仕方が無いので庭にいて、少し縁側に腰掛けるもよし。そう思い静かに佇んでいる耳元には、かすかに琵琶の音が鳴った。そう遠くないのに、遠くからに聞こえる。僕は慣れっこなので、家の反対側にある、渡り廊下で繋がった、ひっそりとした離れから聞こえてくるのだろうと思った。雨の日には、良くあることで、そのかすかな音ははじめ雨粒に染み込み、やがて黒い木々に、むき出しの地面に、飛び石に、そして濡れて黒々した古い日本家屋に染み入り、辺りに吸い込まれていた。ああ、離れのだれそれが琵琶をひいているんだねえ、などと嘗ては言ったものだが、今じゃただ、その音色と一緒に、辺りに僕も染み入るだけだ。
縁側に越し掛ける僕の後ろの襖を隔てて、そこには居間があり、部屋の真ん中にはダイヤル式の赤いテレビがあり(あのチャンネルのスイッチが、引っ張ると取れてしまうやつだ)、モノラルで張り上げるバリトンが流れている。ちらちらと襖に遷る赤と黒の文様が映えて磨き上げられた縁側の廊下で踊る。僕の背中をちらちらと這う。誰が見てるのかなどと野暮な話は無しだ。もう知っている、何が必要か、あるいは何が必要でないか。琵琶だのオペラだの家だの、全く関係の無いものが同居しうるこの胡散臭い空間には、慣れすぎて吐き気がした。 外に出るには億劫だった、とはいえ夕刻にはまだ間がある。長く、長く、時間は過ぎる。永遠に過ぎゆく。僕は、ざわざわする心のままに、両手を差し出して、落ちる雨粒を掴むことを諦め徒に待った。瞬間的に夕刻を飛び越え、夜が過ぎ、朝になってこの暗い庭に日差しを差し込むのを。そしてまた、暗い昼を迎えることを。
見るものがいないテレビは、未だ辺りを赤と黒に散りばめ(しかもひっそりと、控えめに)、低く囀るバリトンから、今は甲高いカナキリ声のソプラノに変わり、襖に隔てられた居間は光と音をぼんやりとフィルタした。 遠くから(今はもう、そう感じてならない)届く琵琶の音には、はじめから何の意思も無い。空気のようだった。 僕が座る縁側も、縁側伝いに続く廊下の奥には本や雑貨が山積してほこりっぽい(だろう)。 僕が日差しの強い午後に如雨露で濡らした飛び石も、今はただ濡れ光っている。
僕は箱庭の蓋を閉じた。