
買い物袋を両手に下げて、僕はきつい上り坂を上がっていく。坂の途中の家から聞こえて来るメヌエット。静かに、僕は静かに上り坂を上がっていく。坂の頂点の少し込みいった場所に僕の住む安アパートはある。荷物を置いたら、僕はすぐに家を出なければならない。用事があるのだ。
程なく荷物を置いた僕は、肩掛けカバンを掴み取り、急かされたように家を出る、鍵をかけたかも分からずに。
「見ろよ、街灯の光の端も、緑色だぜ」
などと柄にもなくつぶやくと、塀の裏にいた(のだろう)猫が「みゃー」と鳴く。多分、腹が減っているんだろう。雲ひとつ横切らぬ夜空の只中で、月はぼやけて、融けかけたチーズのようにだらしない。メヌエットはもう鳴り止んでいた。僕は静かに坂を下る。一歩、一歩。坂の途中にある十字路で、僕は上ってきた道とは違う道を選んで曲がった。その道は、緩やかに左に折れて目的地に向かっている。前方に見える道の行く先は切り立った土地を削って出来ていて、片側は石垣が組んである。その石垣とゆるい曲がりが、街灯の青白い光を遮っている。石垣のやや手前、マンションの傍に立つ街灯の根元には、エンジンが掛かったままのカブが停めてあった。新聞配達のものだろうか。無用心だ。坂を下りるのも意外に負担が掛かるもので、少し歩いただけで膝にきた。それ程長い坂ではない。終わりはもうすぐだ。
坂は緩やかに下りに差し掛かり、小さな”流れ”を渡すコンクリートの橋を渡ると、坂は終わった。僕は今歩いてきた坂を振り返ってみる。緩く曲がりながら上る道の途中には、ポツリポツリと街灯が立ち、暗い坂道を照らしている。街灯の傍にある木造の家屋が暗闇に浮かび上がる。雲が無いにもかかわらず、家屋と石垣の崖の間から見える夜空には、星が見えない、ただ、融けかけた月だけが木陰から覗く。もう、アイドリングの音は聞こえない。
バス通りの手前で僕は、足を止めた。目の前には赤い郵便ポストがあった。肩掛けカバンから封筒を取り出して、静かにそれを落とし入れる。コトリ、と音が響いた。周りの民家からは、テレビの音も、ラジオの音も、家族の団欒も、犬の遠吠えも、何も聞こえない。住宅街の只中、封筒が落ちてポストの底に当たる音だけが響いた。僕の目的は、この封筒の投函だった。その瞬間、辺りの家並みの、色のかすかなニュアンスが赤から青に変わった。ざわめくバス通りの気配。この場にはもう、用が無くなった。僕はまた静かに、驚くほど静かに坂を上る。
Photo & Fancy: M.Y
Camera: Kyocera WX300k
Retouch SoftWare: Picasa2
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