
気が付けば、部屋中に差し込む橙色の光で満ち溢れていた。流れる冷や汗は、寝入ってしまった間の奇妙な夢の内容を物語る。勿論、どんな夢であったかなど、記憶に残っている訳も無い。隣の障子を隔てて廊下を挟んだ台所からは、包丁のリズミカルな音律。胸に詰まるような圧迫感を覚えた。どうやら人の家であるにも係わらず寝入ってしまったらしい。ふ、と僕は息をついた。確か僕は、・・・・・この家で音楽を聴くつもりで来たのだった。床の間には、磨き上げられたアルミ製のターンテーブルが鎮座しており、その白銀のボディは朱に染まっていた。僕は中腰でそのターンテーブルを持ち上げて、部屋の中央に据えた。ケーブルは延ばされて部屋の中央を横断して、床の間にあるアンプに繋がっている。僕が聞きたいレコードは、プーランクの歌曲だ。あの伸びやかに上がり、そして艶やかに下る美しいラインのメゾソプラノが聴きたかった。アンプの横に立て掛けてあるローランサンの描く女性のジャケット、あれだ。僕はレコードに針を落とした。艶やかに回るレコード。僕は、じ、と聴き入った。
橙色の光は部屋の畳の上に敷き詰められ、障子に遮られて出来た格子状の影の合間を縫って庭に植わる笹の葉の影が、風に煽られて狂おしく身悶える。襖には松らしき絵が描かれており、その上で、影が踊っていた。笹の葉が擦れて鳴る音は、サアサアとまるで何者かを招くかのようだ。しわがれた風の音、低く這いずるようなバリトン、それに台所から変わらずに聞こえてくる俎板の響き、これらの音が交錯し、僕の鼓動は何故か早まる。ある予感が有った。
レコードの歌い手がテノールに変わった時、日差しは焦げるように暗さを増し、日没迄間近だった。妙な気配を感じて、僕は障子を見た。障子には、くっきりと人影が映っている。人がいるのか、或いは物の怪だろうか?影は全く見動き一つしない。少しだけ開いている障子の隙間からは人影の口元だけ伺える、口元の紅。僕はじっとそれを見つめた。レコードは流れ、踊り狂う木々の影も今は静かに収まり影絵のようだ。畳の上には僕とその人影だけが伸びる。時は流れて、流れても、まるで部屋の中はミニチュアの模型のように止まったままだ。部屋に入る光を遮る庭の土塀の上に、焼け付く太陽がその身を隠す寸前、僕は遂に口を開いた。
「そちらじゃ、何だ、こちらに入っておいでよ。」
影は相変わらず、身動きしない、ただ、隙間からのぞく口元の紅だけが、少し歪んだように見えた。僕は重荷が取れたように、ふ、と息をつく。ターンテーブルの針が上がり、静かに回転を止めた。気付かないうちに曲は終わっていたようだった。僕がレコードに手を伸ばした時、レコードはパキリと音を立て、ターンテーブルの上で真っ二つに割れてしまった。少し驚いて、僕はその割れたレコードに手を伸ばす。
「あ、いたっ、」
僕は欠片の端で人差し指をついてしまった。始めは浮き出るような白い痕だったが、見る見る内にその白い後から血が流れ出てきた。流れ出る血は指を伝い、まるで線香花火の玉のように溜まる、そしてしばらく溜まった後に弾けて、まるで螺旋を描くように畳の上に滴り落ちた。僕は傷ついた方の手首を反対の手で押さえた。押さえた手は、強い脈拍を感じる。どくん、どくんと叩くような脈拍は、僕の心音、そのものだ。僕は、呻いた。
部屋を照らす日差しは止み、部屋の中は闇に包まれ、人影は闇に紛れる。台所の俎板の音は途切れていた。暗い部屋の中では、ただ、僕の息遣いだけが残った。
Photo & Fancy: M.Y
Camera: Kyocera WX300K
Retouch Software: Picasa2, PhotoShop
Location: Studio W.W
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