僕がドミトリィ=アンドレーヴィッチ・イシズキー氏と会ったのは、かれこれ十年ほど前の話で、それは湖でのことだった。当時僕は住処にしていた多摩川の橋 桁の下を追い出されて、仕様も無く湖近くに住む知人を訪ねていた。その湖はつい先頃、多摩川が氾濫して出来たもので、辺りの地形は大きく変わってしまって おり、知人の自宅があったとおぼしき場所は完全に湖の下になっていた。途方に暮れて、かつては何らかのモニュメントであったであろう岩(かすかに東芝とい う刻印が見受けられた)に腰掛けていたときに、声を掛けてきたのが、イシズキー氏だった。
彼は黒髪に金ラメ・銀ラメで刺繍が施されたエプロンみたいな服を着ていた。そして右手には釣竿を持ち、左手には真っ赤なブリキのラジオを持ってお り、そこからはノイズに混じって犬の鳴き声のようにまくし立てる民族音楽が流れていた。彼は親切な男で、住むところが無いなら家にくればいい、のようなこ とを片言の日本語(彼の日本語はひどい北京なまりでまるで昔の中国人のようだった)で言ってくれたので、僕はその好意に甘えることにした。
着いた先は、家ではなく、湖に浮かぶ一艘の舟だった。それが彼の根城だった。もともとは多摩川の岸に係留していたが、先頃の氾濫で新しく出来た湖 に流されてしまったらしい。彼はそもそも今回の氾濫は、政府が意図しておこしたものだと主張して憤激していた。さすがに恥知らずの政府であってもそこまで はしないだろうと言ったところ、彼はインターネットを使って集めた情報だから間違いないと言った。その当時、僕はインターネットというものを見たことも触 れたことも無かったから、それを何か釣りにちなんだ網か何かだと決め付けて、釣り人同士の噂話程度の信憑性だろうと彼の意見を黙殺した。
その後、彼とは一年ほどその一艘の舟で共に暮らした。彼はもともと、日本の昔の文化に興味があって、わざわざロシアから二年も掛けて日本に歩いて 渡ってきたと言っていた。彼の日本語が北京なまりであったのも、うなずける話だった。嘗て多摩川流域で隆盛を誇った”キャノン”と”トウシバ”の製品に興 味があり、この地域に住みついたのだと言った。彼は過去の遺物を見つけては古物商に売り払い生計をたてていた。初めて会った時にぶら下げていたラジオはト ウシバ製のトランジスタラジオであるらしい。今ではラジオから流れる音声は24時間毎に繰り返される同じ内容だが、統合以前は365日、常に違った内容・ 音楽を流していた、と彼は言った。僕はその話を到底信じることはできなかった。何年・何十年もの間、違う内容のものを作り続けるには、一体どれだけの人の 労力とアイデアが必要なのだろう。想像を絶する何かが、嘗ては行われていたのだろうか?あるいはこれは単なる作り話で、僕は昔作り出された悪意あるプロパ ガンダが運よく生き延びたものではないかと夢想した。総じて、彼の話は生まれてからこの国を出たことの無い僕にとって常に新鮮だったから、嫉妬と羨望を感 じ続けたものだった。
月の出る夜は、必ずといってよいほど、舟を漕ぎ出して、湖上で酒盛りをした。酒は合成焼酎でプラスチック入れ物に入っていた。肴はいつもじゃこと 胡桃を砂糖醤油で煮詰めたものだった。どれも当時川崎で手に入るものとしては上等の部類に入るものだ。彼は、酔いがまわりかけた頃合に、月夜の薄暗い明か りに照らされながら、踊り始める。湖上には他の船影もなく、彼がステップを振るたびに暗い水面に波紋を投げかけた。岸までは遠く、その岸の更に遠くの海寄 りには高層ビルが立ち並んでいた。ただ僕らの笑い声がしんとした空気に響いた。彼はこういった宴では非常に陽気で、その性質はロシア人というよりはむしろ チェチェン人を思わせた。
僕は一旦東京に戻ることになり、舟上生活とは別れを告げた。彼はしばらく舟の上での生活を続けたようだったが、持病の痛風の治療のためにフェリー で北京へ渡るという、一通の手紙を寄越して、その後の消息をたった。今では僕は生活に追われて昔のことを思い出すことは殆ど無くなったが、先般近所の骨董 屋の店先で赤いブリキのトランジスタラジオを見掛けた。店員に「ラジオなんて珍しいですね」と声をかけると、店員はいぶかしがる様子を見せながら「これは HD録音機ですよ」と言った。もしかすると、あの頃が僕にとって一番幸せだったのかもしれない、と思った。
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