「男はみんな馬鹿で自分勝手ね。」
とその女はいった。お前に何が分かるんだ、と思ったが、その言葉を吐き出すのをぐっと堪えた。
もう八月の末だというのに、夏はこなかった。今年だけはない。もう何年も夏はこなかった。かつては地球全体が温暖化していて陸地の80%は水没するとまでいわれたものだったが、皮肉なことにある年を境に地球からは熱が奪われてしまった。それどころか、八月だというのに軒下にはつららが生えている。僕は中位のそれを右手で叩き折り、口に含んだ。
「男はみんな馬鹿で勝手ね。」
とその女はいった。お前に何が分かるんだ、そもそも、みんなって誰のことだ、と思ったが、その言葉を吐き出すのをぐっと堪えた。
日本はユーラシア大陸と陸続きになり、その後文字通り、”吸収されて”しまった。今、かつての日本は、東アジア共同体の中の一行政区を演じている。そして、その演技は当分終幕までこぎつけることはなさそうだった。僕も同様に演じ続けるしかなさそうだ。高慢な女が垂れ流すどうでもいい教訓に、心の中では毒づきながらもあくまでにこやかに応じていた。そう、昔のように僕は不器用な人間ではなくなったのだった。女は煙草を吸い始めた。(随分、長い煙草だな)と僕は思った。「男はみんな馬鹿で自分勝手ね。」憑かれたように女は煙草を吸い続けている。寒くは無いのだろうか?
僕は率直に言って寒かった。フリースを4枚ほど重ねて着ていたが、それでもなお寒かった。その割にはのどが渇いていた。僕はまたつららを折って食べた。何だか甘いような気がする。きっと、”あじのもと”が混ざっているに違いない。そう、サトウキビの絞りカスから魔法のような手段で精製された”あじのもと”は、その精製過程で煙突から大気に混ざり、川に流れ、やがては海に還る。そしてまた揮発して、今故郷の川崎に戻ったのだろうか。「男はみんな馬鹿で自分勝手ね。」そんな壮大な空想は、女の身勝手な感想によって遮られた。果たして、身勝手なのはどちらなのか?
僕は相変わらず、湖の岸辺にたっていた。空は薄暗く、湖面のもやは辺り一面をかすませた。それは薄ら寒い景色で、まるで僕の心象風景のようだった。太陽はもやと雲で翳み、辺りの木々は暗く揺らいだ。揺らぐ陽光は僕の手の甲をに反射していた。僕はため息をつくばかりだった。「おと・おとこ・おと・・・おと」女は声を詰まらせた。どうやらこわれてしまったらしい。
女は、赤いガラス張りの格子で出来た電話ボックスの中に立っていた。白い幅広の帽子を斜に被り、その縁からは長いまつげが覗いていた。白とピンクのワンピースは腰のラインが絞られて強調されていた。僕は握っていた女の左手を元あった場所に戻した。ちんっ、と音を立てて、女の左手は収まった。女はブリキ製の電話機だった。そして彼女の左手は受話器だった。すでにメッキはところどころに剥げており、特に左手はブリキの金属があらわになっていた。
僕はため息をついた。ふう、と白い息が吐き出された。僕は友人に連絡を取るために、この見るからに悪趣味な公衆電話に立ち寄ったのだが、残念ながら、その目的は達せられなかった。女は、同じ繰言しか言わず、一向にどこかの誰かにつなぐつもりもなさそうだった。もしかすると、これは電話ではなく、ラジオであるかも知れない、と思った。僕は諦めて電話ボックスの扉を閉めようとした時、「男はみんな馬鹿で自分勝手ね。」と、ガラス越しで少しくもぐったような声で女が言った。僕は一瞬、手を止めたが、すぐに扉を完全に閉めた。女の右手の指の間から、長い煙草が落ちた。
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